「自分がされて嫌なことは人にしない」は圧倒的に正しい

為になる雑記

はじめに

過去に私が人間関係で悩んでいたときに、

原因は、「自分がされたら明らかに嫌なことを無意識のうちに他人にしてしまっているから」じゃないかと最近になって思いました。そこから、「自分にされて嫌なことは他人にもしない」という格言について色々と調べていて、あんまりにも「この考え方は正しくない」と主張する方が多いと感じ記事にした次第です。

例えば、このツイッターの投稿、

「自分がされて嫌なことは、他人にしちゃダメよ」っていうけれど、自分がされてどう思うかよりその相手がされてどう思うか?が大事だと思う。自分の尺度で相手を測るのは自分の常識を押しつけているように思えた。

「自分だったらこう思うけどその人だったらこう思うんじゃないか?」

自分の「好き」が必ずしも他人が好きとは限らない。だからこそ相手と自分は別の思考を持つ人間だという割り切った距離感を知ることは意外と大切だと思う。


https://twitter.com/Oritakeikou/status/920358832714407936

他にも、知恵袋の質問や、

私は自分のされて嫌なことは相手にしない、という教えに反対です。

①自分のされて嫌なことが相手にとって嫌とは限らないから

②自分のされて嫌なことじゃないことは、実は相手にとってはものすごく嫌なことかもしれないから

③自分がされたら嫌だからしないということでは結果的に、相手を嫌な気持ちにさせたくないというより自分がされたくないからという身勝手に聞こえるから


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10163430910 (文章は中略あり)

こちらの記事とか、

ぶっちゃけ「自分がやられて嫌なことは他人にはするな」という論法はお互いの価値観が一致していないとダメなので意味がない。
突然自宅のポストにマダガスカルゴキブリの標本が入っていたら嫌でしょう?
俺は嬉しい。


https://twitter.com/ADU_64/status/969063399182123009?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E969063399182123009&ref_url=https%3A%2F%2Fbuzzmag.jp%2Farchives%2F158114

引用のオンパレードが続きましたが、思うに、4つの論点があるのだと思います。

  1. 省略の問題
  2. 最尤推定量問題
  3. 裏の問題
  4. 価値観の問題

さて、少し分かりづらく書きましたが、一つずつ見ていきます。

省略の問題

最初は省略の問題。より簡単に言うと、「自分にされて嫌なことはしない」という文章から、ある重要な一文が省かれているということです。

前提の確認

さて本題に入る前に、一つお聞きしたいことがあります。

相手が嫌なことをしても良いでしょうか?

例えば、殴られることが嫌な人に殴りかかっても良いでしょうか?

犯罪ですね。ダメです。

では犯罪ではないようなことはしても良いのでしょうか?

例えば、

  • 悪口が嫌いな人の前で、他人の悪口を言う
  • ソバアレルギーの人にわざとソバを振る舞う

どれも犯罪では無いです。( その人が ソバを食べて苦しめばそれは犯罪になり得ます)

つまりこれらのことをしても何も罰せられません。少なくとも法律的には。

ただ、恐らく社会的な罰が下るでしょう。その人から距離を取られるだけならまだしも、悪評が広まって人が近寄って来なくなるかもしれません。現代はネットが発達していますので、炎上→時の人コンボで社会的に抹殺される恐れもあります。

つまり、「相手が嫌なことはして良いか?」という問いには、

「嫌がられることをすれば人間関係的に不利益を被るので、しない方が良い」のです。

*もちろん、例外はあります。例えば、「指摘されることが嫌いな相手」のしでかしたミスを注意すべきか否か?など。彼の今後のために注意した方が良い場合もあります。あくまでメリットとデメリットを比較した場合、デメリットが上回ることの方が多いよね、って意味です

問題の文章について

さて話を戻しましょう。「自分がされて嫌なことは人にしない」をより詳しく書いてみます。この文章には、4つの論理展開が隠されています。

  1. 自分がされて嫌なことは相手にとっても嫌なことだ
  2. 相手に嫌なことをすると自分に不利益が生じる
  3. 自分に不利益な行動はしない方が良い
  4. 自分がされて嫌なことをすると不利益を被るので、そういった行動はしない方が良い

つまり冒頭で引用したツイッターの一意見、

『「自分がされて嫌なことは、他人にしちゃダメよ」っていうけれど、自分がされてどう思うかよりその相手がされてどう思うか?が大事だと思う。自分の尺度で相手を測るのは自分の常識を押しつけているように思えた。 』

これは全くの勘違いです。(*1)「自分がされて嫌なことは他人にしない」という文章は、上(2,3)で書いた通り、「相手が嫌なことはしない」という意味を含んでいるので、「相手のことを考えていない」という主張は成り立ちません。

しかしこのような反論もあるでしょう。

「 自分のされて嫌なことが相手にとって嫌とは限らない 」

その通りです。論理1は自明ではありません。ただ2と3については同意して頂けると思います。

ここで言いたいことは、この格言は主張1~4に分けられ、全員が同意出来るだろう事柄(1)と同意出来ない事柄(2,3)が入り交じっている、ということです。

最尤推定量問題

さて、次は「自分がされて嫌なことは相手にとっても嫌なこと」なのかについて考えていきます。

突然ですが、「最尤推定量」という言葉をご存じでしょうか?

さいゆうすいていりょう、と読みます。ウィキペディアにはこのように書かれています。

最尤推定(さいゆうすいてい)や最尤法(さいゆうほう)とは、統計学において、与えられたデータからそれが従う確率分布の母数を点推定する方法である。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%B0%A4%E6%8E%A8%E5%AE%9A

ああ、分かりづらい……。他サイトになりますがこちらの記事を読むと少し分かるかもしれません。

簡単に言うと、

くじを1,000回投げて、当たりが100回、外れが900回出たとしたら、当たりの出る確率は1/10だよね、ということです。

もし仮にくじが10,000個あり、当たりを引く「正確な」確率を知りたかったら、10,000回くじを引くしかありません。しかし、1,000回引いて当たりが100回出たとしたら、このくじ引きには当たりが10%含まれていると考えるのが妥当そうじゃないですか?

(感覚的にも分かるかもしれませんが、数学的に証明も可能です)

最尤推定量問題とは、一番最もらしい値を見つけ出せ、という意味です。

今回の「 自分がされて嫌なことは相手にとっても嫌なこと 」という命題は一種の最尤推定量問題だと言えます。

つまり、

「自分がされて嫌なことを他人にしたとき、その相手がその行動を不快に思う確率はどれくらいか?」を解く問題です。

くじは10,000個で済むかもしれませんが、人間の場合はそうはいきません。死んでしまった人間、未だ生まれてきていない人間。彼らから意見を聞くことが出来ないので、正確な確率は一生求められないと言って良いでしょう。さらに個々人の性格、アイデンティティなどによって確率は変化しますので、あくまで推定するしかないのです。

しかし、相手が嫌がることはしない方が良いので、どうにかして相手のNGリストを知りたい。ここで自分の嫌なことリストが役立ちます。

「自分がされて嫌なことは、相手がされて嫌なことである」と確信をもって言えるわけでは無いですが、「その可能性は高い」ことは最尤推定から言えるでしょう。

例えば、あなたは好きな人にお菓子を渡されるのは嫌ですか?色々な意見がありますが、少なくとも私は喜びます。 私は別に嫌ではないので、大半の人は嫌いではないと結論付けられます。

一方で、「他人を家に入れる」のはどうでしょうか?意見が分かれそうですね。私は人を自分の家に入れたくありません。ここから推測して、自分から、「あなたの家を見てみたい」などと言いません。他の人も同様に「自分の家に部外者を招き入れたくない」と考えていると推定出来るからです。

ただこれは、「自分が嫌ではない行為」は相手も嫌がらないと結論付けて良いというわけではありません。あくまでN=1の意見です。くじを1回引いて当たりが出たから、このくじは全て当たりだ!と思い込むのと同じです。

例えば糖質制限中の人にお菓子を渡しても嫌がるだけでしょう。

そして、他人から「家に来ない?」と聞かれれば、私は喜んでお邪魔します。相手が嫌ではないなら最尤推定は意味をなしません。そして時と場合によります。

ただ自分の全ての行動について、相手が嫌がる確率はどれくらいか……なんて考え続けるのは不可能ですよね。

それならば、相手が嫌がる確率が高い行動、つまり、「自分がされて嫌なこと」は「相手が嫌がる確率100%」と仮定して、取りあえず控えておこう、と考えるのは「アリ」なんじゃないでしょうか?

これが主張1の「自分がされて嫌なことは相手にとっても嫌なことだ」の真意です。

世の中、常に正しいこと、全員に当てはまることなんてありません。主張3の「相手に嫌なことをすると自分に不利益が生じる」もいつ何時でも成り立つ万能法ではないのです。

ただ自分の中で、

「自分のされて嫌なことは相手にとっても嫌なことで、それをすると不利益が生じる」と決めておけば、思考を簡略化出来るというだけのことです。

もしこれが出来なければどうなるでしょうか?

まず、ある行動について、

  • 相手が嫌がる確率を求め、
  • その行動をしたときに自分が不利益を被る確率とその大きさを計算し、
  • もしその行動をしたときに得られるリターンと天秤にかけることになります。
  • ついでにその行動が相手にとって嫌でない時に、得られるリターンも天秤に追加されます。

その思考が無限回繰り返されます。会話の中でこれを瞬時に行うのは不可能に近いです。

一旦まとめです。 「自分がされて嫌なことは人にしない」は、

  1. 自分がされて嫌なことは相手にとっても嫌なことだ
  2. 相手に嫌なことをすると自分に不利益が生じる
  3. 自分に不利益な行動はしない方が良い
  4. 自分がされて嫌なことをすると不利益を被るので、そういった行動はしない方が良い

という4つの主張に分けることが出来、日常生活のあらゆる文脈の一つ一つの行動において、これらを検討することは難しいので、もう認めてしまっても良いのではないか、ということです。

裏の問題

ここまで読んできた人はこう思うかもしれません、

「自分がされても嫌じゃないことは他人にもして良いの?」と。

結論から言うとそういう意味は「自分がされて嫌なことは人にしない」に含まれていません。

*回りくどい言い方をしたのは、「してはいけない」と言ってしまうと価値観の押しつけになるからです

またまた数学的な話をしましょう。上の命題は以下のように書き換えられます。

「xが自分がされて嫌な行動」ならば、「xは人にしてはいけない」

ここで、

  • Ax = {xが自分がされて嫌な行動}
  • Bx = { xは人にしてはいけない}

と置くと、さらに次のように書き換えられます。

そして、 「自分がされても嫌じゃないことは他人にもして良い」とは、

  • 自分がされても嫌じゃないこと=Axの否定
  • 他人にしても良い=Bxの否定

となるので、

と書き表せます。これをと言います。

さて、上式から下の式は導き出せるでしょうか?

答えは……・導き出せません!(数学的に微妙に間違っているのはご容赦下さい。例えば全称記号とか存在記号とか……)

これは簡単な例で分かります。

例えば、Aにスイカ、Bにフルーツを入れてみれば良いでしょう。

「スイカはフルーツだ」から「スイカでないものはフルーツでない」という結論を導けますか?スイカでないもの、例えばイチゴはフルーツでないというのは明らかな誤りなので、「スイカでないものはフルーツでない」は誤りです。

(個人的に、「平家でない者は人間でない」とおんなじ匂いがします……)

数学的には、「命題が真の時、その裏は偽である」は、Ax=Bxでないという条件のもと、正しくなります。

最初に上げた例の、

「自分のされて嫌なことじゃないことは、実は相手にとってはものすごく嫌なことかもしれない」や、

「突然自宅のポストにマダガスカルゴキブリの標本が入っていたら嫌でしょう?俺は嬉しい」

という反論は、「自分がされて嫌なことは人にしない」を「自分がされても嫌じゃないことは他人にもして良い 」と混同しているために出た発言です。これはスイカとフルーツで説明されればすぐに分かることだと思います。

ただ今までの話はあくまで、「数学的」に導けることです。

例えば、

「お前がされて嫌だろ?ならするなよ!」 系の説教受けて 「いや別に俺はされてもなんともw」 って言った時に歯切れ悪くした先生思い出したけど、こういうことなんだなってあとになって気づいたなぁ←

のように、 この主張を逆手に取って「自分がされても嫌じゃないことは他人にもして良い 」 と反論されたとき、言い返せなくなるのも分かります。

なぜなら数学云々はおいておいて、

現実世界では、「自分がされて嫌なことは人にしない」の中に、「自分がされても嫌じゃないことは他人にもして良い 」という意味も多少含まれているからです。

だからこそ人は上の例のように勘違いをするし、反論に窮したりするのです。

ただ、恐らく大半の人は後者の意味を認めないでしょうし、私もこの(=前者の)考えを持っていますが、「自分が嫌じゃないことは他人にしていい」と安直に考えてはおりません。

価値観の問題

このような反論も書かれておりました。

「自分がされて嫌なことは、人にはしてはいけない」の裏には「自分と人は同じ価値観だ」というのが少なからず隠されてます。


http://k-nali.hatenablog.com/entry/2015/06/04/080757

その通りです。

自分がされて嫌なことは他人も嫌だ、という仮定を挟んでいるため、「自分と人は同じ価値観だ」と考えていることになります。そして、同時に、

同じ価値観を共有しているという思い込みは危険

であることも言い添えておかなければなりません。子供が「自分がされて嫌なことは、人にはしてはいけない」ということから、このような思い込みに至る可能性もあるでしょう。

つまり、この主張は目で見ても、耳で聞いても分かりやすいものですが、誤解されやすく、聞いた人が危険な思考に流れやすいことに注意しなければなりません。

さらに、一番の問題は、自分がされて嫌なことは人にしてはいけない

と他人に押しつけるのは間違っています。

これが自分への叱咤激励であれば良いのですが、大人が子供へ教える際もよくよく考え直さなければなりません。それが解釈によっては危険な思想に行き着くということと、そもそも価値観を押しつけているということ。

結論

つまり、私が冒頭で示した例に真っ向から反対するわけではなく、語尾の「命令口調」はよろしくないという意見には完全に賛成します。

ただ今まで見てきたように、自分の心の中でそっと思うのは間違っていないのです。

  • 思考の無駄が省かれ
  • 行動が洗練される

とても素晴らしい格言だと思います。

しかし、他人にそれを伝える際に、

  • 好きなことは相手にしても良い
  • 相手と自分の価値観は同じである
  • そもそも価値観を押しつけている

と解釈されてしまうことがあります。

これを防ぐために、例えば、

  • 自分の行動で示す
  • 「嫌だからやめて」とはっきり言う
  • きちんと説明する

といった代替策や配慮が必要になります。

さらにさらに、自分にとって嫌なことだけが全てではない、ということも意識しておいてください。

以上です。長々とご覧いただきありがとうございました。

*1:この文章が、「他人にしちゃダメよ」という点を批判しているのでは無いか?という主張は正しい。ただ、作者はあくまで、「相手のことを考えていない」ことを批判している。これについては反証可能だ。そして私自身も「価値観の押しつけ」はすべきでないと考えているので、この作者様の意見の一つ、「他人に価値観を押しつけるな」ということには賛成する

最後に私がされて嫌なことを羅列しておきますね。

  • 嫌味を言われる
  • 自分の話を適当にながされる
  • 自分の行動を否定される
  • 怒られる
  • 悪口陰口全般
  • 論理的に考えて理不尽なこと
  • 笑われる
  • 下ネタ(笑)
  • 理解して貰えない、勘違いされる
  • 構って貰えない、褒めて貰えない
  • 周囲の目があるときに自分の評価を下げられる
  • 自分の意見が無視される、理不尽に否定される
  • 過去を勝手に暴露される
  • 面倒な仕事を押しつけられる
  • 下に見られる
  • 嘘をつかれる
  • 相手が思い通りに動いてくれない

これらをしないように心がけている私は聖人ですね、ええ()

こういう個人的なことも書けてしまうのがブログの特徴です。

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