【読んでいない本について堂々と語る方法】を主観的に考察する

為になる雑記

前回、ピエール・バイヤール著『読んでいない本について堂々と語る本』の主要レビューに触れつつ、自分の意見を挟み込む形を取った。

しかし、この本を読んだ一読者として私も言いたことがある。今回は様々なレビューに触れた上で見えてきた、この本の真意を探っていくことにしたい。

この本の要約

まずは、読書感想文やらを書く人が必要とするだろう、要約を書く。参考にして欲しい。

この本は、本について語る際のハウツーをまとめたものではない。著者はまず本を「読んだ」「読んでいない」という曖昧な概念に抵抗し、ヴァレリー、エーコ、モンテーニュの言葉を引用しながら未読を四つの段階に分類する。そして、「読んでいない本」を元に、大勢の前で、筆者の前で、知識人の前で、評論を書く際など、様々な場合にどのように振る舞えば良いかを示す。書物に対する新たな向き合い方を示した点で有用な一冊。

内容紹介

さて、この本を見ていく為に、まずはちくま学芸文庫の表紙裏の内容紹介に触れよう。

本は読んでいなくてもコメント出来る。いや、むしろ読んでいないほうがいいくらいだー大胆不敵なテーゼをひっさげて、フランス文壇の鬼才が放つ世界的ベストセラー。ヴァレリー、エーコ、漱石など、古今東西の名作から読書をめぐるシーンをとりあげ、知識人がいかに鮮やかに「読んだふり」をやってのけたかを例証。テクストの細部に引きずられて自分を見失うことなく、その書物の位置づけを大づかみに捉える力こそ、「教養」の正体なのだ。そのコツさえ押さえれば、とっさのコメントも、レポートや小論文も、もう怖くない!全ての読書家必携の快書。

ちくま学芸文庫の表紙裏の内容紹介より

まず気になるのが、

「とっさのコメントも、レポートや小論文も、もう怖くない」

という文言だ。これは正しいのだろうか?

おそらく正しい。そして、私が思う、この本の最も重要な点と密接に関係しているので、このような疑問を掲げて進むことにしよう。

「なぜこの本を読めば、本について語ることが怖くなくなるのだろうか」

未読の諸段階

著者はまず、読んだ、読んでいないという区別が非常に曖昧であると指摘する。本のタイトルすら知らず、内容も聞いたことがなく、手にしたこともない本は読んでいないと言い切れるかもしれない。

しかし、例えば、映画で『ハリーポッター』を見たが、本を読んでいない人は、読んだ、読んでいないのどちらに入れ込むのが正解だろうか?その人は本だけを「読んだ」人よりも、映像として頭にはっきりと内容を覚えているかもしれない。

本を読んだが忘れてしまった場合、その本を読んだ、と言い切れるだろうか?人からあらすじを聞いたり、ネタバレを読んだ場合はどうだろうか?

こうして考えてみると、テクストとの出会いは、「読んだ」と「読んでいない」の間に位置づけられることが分かる。

読んだ、読んでいないという境界が不明なまま、「読んでいない本」について語るのは非常に危険だろう。よって著者は読んでいない状態を以下の4つに分類する。

  1. ぜんぜん読んだことのない本
  2. ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
  3. 人から聞いたことがある本
  4. 読んだことがあるが忘れてしまった本

ここでポイントとなるのが、(あらゆるレビューを見ていたが、ここを明確に指摘した人はいないかった)読んだ本を定義していないことだ。彼ほどきっちりともれなくダブりなく議論を進める人が、読んだ、という状態について考え忘れていた訳がない。さらに、未読の段階その2にある、ざっと読んだ、流し読みをした本について、どこまでが「ざっと読んだ」「流し読みした」に当たるのかを一切定義していない。

さらに、筆者は色々な作品を引用し、明らかに読み込んでいないと分からないようなことを書いているのだが、それら全てに「流し読みをした、ざっと読んだ本」と注釈しているのだ。自分の未読の段階に無理矢理押し込めようとしている、いささかやり過ぎといった感じだが、おそらくこれはピエール・バイヤールが意図してやっていることだ。

彼はおそらくこう考えている。

人は究極的には本を読んだとはいえない。文章の一語一句を目で追ったとしても、人は忘れ、読んでいないのと同じ状態になる。忘却のプロセスは読んだそのときから始まるため、人は結局は本を読むことは出来ない。よって、読んだという状態は存在せず、定義する必要もない。

これこそが筆者の言いたかったことなのではないだろうか?

本を読んでいないが話に参加したい、本を読んだけれども忘れてしまったから、その本について語るのが怖い、読んだけれども解釈が間違っているかもしれない……こうした不安に対して、

「本を読むことは出来ない」

と返されたら、不安は和らぐだろう。本を完全に解釈することは、本を完全に読むことが出来ない以上不可能。だとしたら、自分が間違ったことを書いたとしても何ら責められることはない。

「なぜこの本を読めば、本について語ることが怖くなくなるのだろうか」

この問いに対する答えは、

この本が、本を読む上での限界を示したことで、読者が「本を完全に読めなくとも本について語ることが出来る」と考え、本について語る心理的ハードルが(無意識的にでも)低くなるから、となる。

訳者あとがきによると、この本の原題を直訳すれば、「読んでいない本についていかに語るか」である。なぜ、訳者が「堂々と」の三文字を付け加えたのか、それは全ての本が未読本に分類され、この本に書かれたことが、あらゆる本を語る際に通用するから。今まで本を語るときに「自分は本当に本を読んだといえるのだろうか」と自問していた全ての人が、誰でも本について語ることが出来るという理論的な正当性を得ることで、今までよりも堂々と、饒舌に語るようになる。それがこの本の最も重要な点なのだと思う。

この本から学べること

ここまでがこの本の全体を語ったものになる。ここからは、自分語りではないが、この本から私が何を学び取ったか、そして何を学び取れるかについて書く。

本の批評をするには

本の批評をしなければならない事態に直面したときに役立つ話。具体的には読書感想文、小論文など。強制的なことでなくても、自分からこの本について書きたい、と思った時にも役立つアドバイス。

本の内容から離れてもいい

本を紹介する際に、筆者の意図を全てくみ取ろう、文章に全て含めようと躍起にやっていないだろうか?ありがちなのが、自分の考察が間違っておらず、主張を全て組み込めているかどうかを確かめるために、文章の細かなところまで追って、全体が見えなくなってしまうこと。そして頭がこんがらがって、筆が止まってしまう。

本の内容を全て詰め込もうとしなくても良いのだ。私もこの記事を書く際に、「全体の見晴らし」や、「共有図書館、内なる図書館、ヴァーチャル図書館」の話は省いている。

自分が気になった点について書く。その際に自分の経験を合わせて書いてもいい。そもそも本を読む目的は、その本を自分の糧にすること。だからこそ、自分の琴線に触れなかった部分にあえて言及する必要もないだろう。

本の解釈は人それぞれ

人は自分の経験から読みたい部分を読む。読みたくない部分は読まない。こうしていると、同じ本を読んでも、解釈が同じになるということはあり得ないだろう。これは、あらゆる読者が本について語る権利があるということと同義。誰一人同じ読み方をしないということは、誰もが本について語ったその内容には価値があるということ。

最後に、お勧め

私がこの本から得たことは2つほどだ。

あなたは何を感じただろうか?是非教えて欲しい。コメントでも、自分で記事を書くのでも良い。この作品から何を学びましたか?

読んでいない人は是非手に取ってみてくださいね。

読んでいない=完全な未読状態ではないのでこの本は本当に読んでいない状態でコメントすることを推奨しているのではないのです。(笑)

タイトルとURLをコピーしました